媛蹈鞴五十鈴媛と狭井坐大神荒魂神社

神武の后、媛蹈鞴五十鈴媛の父について、『紀』神武即位前紀庚申年8月条は「事代主神の子」とし、『記』神武記は「大物主神の子」とします。(→ 三嶋溝橛耳と媛蹈鞴五十鈴媛

『紀』神代紀第8段一書第6にも、次のように2説が併記されています。

此の神(注:大三輪の神)の子は、即ち甘茂君・大三輪君等、又姫蹈鞴五十鈴姫命なり。

又曰はく、事代主神、八尋熊鰐に化為りて、三嶋の溝樴姫、

或は云はく、玉櫛姫といふに通ひたまふ。

而して児姫蹈鞴五十鈴姫命を生みたまふ。

是を神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。

2説並存の理由については、狭井坐大神荒魂神社、率川坐大神神御子神社の諸相から窺うことができます。

『記』神武記に、次のような記述がみえます。

是に、其の伊須気余理比売の命の家、狭井河の上に在り。

天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行して、一宿御寝し坐しき

〈其の河を佐韋河と謂ふ由は、其の河の辺に山ゆり草多た在り。

故、其の山ゆり草の名を取りて佐韋河と号けき。山ゆり草の本の名は、佐韋と云ふ〉。

「狭井河」は、『大和志』に、狭井渓(さいかわ)は三輪山に発源し狭井寺跡を遶流し箸中で纏向渓に入る、と記される、三輪山麓、狭井神社付近を流れる川を示します。

狭井神社は、『延喜式』神名帳の大和国城上郡に「狭井坐大神荒魂神社」と記され、その南に鎮座する大神神社とともに『延喜式』四時祭条にみえる鎮花祭に関わることから、「華鎮社」「しずめの宮」ともよばれました。

祭神は、『令集解』に「狭井者、大神之麁御霊也」とあり、大神神の「荒魂」とされ、大神神社と深く関わることがわかります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)奈良県:桜井市>三輪・纏向地区>三輪村>狭井神社、狭井河)

また、大和国添下郡の式内社、率川坐大神神御子神社(奈良県奈良市子守町)は、媛蹈鞴五十鈴媛、狭井大神、玉櫛姫を祭神とし、狭井大神・媛蹈鞴五十鈴媛が父子関係にあることを示します。

さらに、率川坐大神神御子神社の境内社として、事代主神を祭神とする、率川阿波神社が鎮座し、事代主神は本来的に、狭井大神に繋がる神と推測されます。

(→ 率川坐大神神御子神社

媛蹈鞴五十鈴媛について「大物主神の子」「事代主神の子」という2説がみえるのは、父神である狭井大神が大神神の「荒魂」であり、事代主神が本来的に狭井大神につながる神であったことによると思われます。

◇ 狭井坐大神荒魂神社は、4段階に変遷した三輪山の神のどれにあたるのか。(→ 三輪山の神の変遷

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