三嶋溝橛耳と媛蹈鞴五十鈴媛

『紀』神武即位前紀庚申年8月条に、神武の后、媛蹈鞴五十鈴媛について次のようにみえます。

事代主神、三嶋溝橛耳の女玉櫛媛に共して生める児を、号けて媛蹈鞴五十鈴媛命と曰す。

『記』は、三島湟咋女、勢夜陀多良比売が、美和の大物主神と神婚し、生まれた子が、富登多々良伊須々岐比売命(亦の名は比売多々良伊須気余理比売)であると記します。

系図にすると、次のようになります。

『紀』
   事代主神
     ├─────媛蹈鞴五十鈴媛命
   三嶋溝橛耳女玉櫛媛
『記』
   美和大物主神
     ├─────富登多々良伊須々岐比売命(亦の名比売多々良伊須気余理比売)     
   三島湟咋女勢夜陀多良比売

神武の后について、『記』『紀』のあいだで、母系は、三嶋溝橛耳(三島湟咋)の娘と一致しますが、父系は、『記』は「美和大物主神」、『紀』は「事代主神」と相違がみえます。

父系の2説については、狭井坐大神荒魂神社の周辺を探ることで理由を窺い知ることができます。(→ 媛蹈鞴五十鈴媛と狭井坐大神荒魂神社

また、三嶋溝橛耳(三島湟咋)は、『延喜式』神名帳の摂津国島下郡に、溝咋神社(大阪府茨木市五十鈴町)がみえ、当該伝承が、摂津国三島の安威川流域勢力に関わることがわかります。

◇ 三嶋溝橛耳の拠点である摂津三嶋を起点として、大和・紀伊・阿波を経由して土佐へ至る、事代主神後裔氏族による交通体系が認められる。(→ 事代主神後裔氏族

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