葛城の掖上

『記』『紀』に、次のような「掖上」の地名がみられます。

① 腋上嗛間丘

皇輿巡り幸す。

因りて腋上の嗛間丘に登りまして、国の状を廻らし望みて曰はく、

「姸哉乎、国を獲つること。

内木綿の真迮き国と雖も、猶し蜻蛉の臀呫の如くにあるかな」とのたまふ。

是に由りて、始めて秋津洲の号有り。

『紀』神武紀31年4月1日条

「腋上嗛間丘」は、奈良県御所市本馬の集落の北、御所市と橿原市の境にある独立丘陵である本馬山(142.8m)とされ、大和平野を一望することができます。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:御所市>本馬村>腋上嗛間丘)

② 掖上池心宮

孝昭天皇の王宮について、『紀』に「都を掖上に遷す。是を池心宮と謂ふ」、『記』に「葛城の掖上宮」とみえ、旧跡が、御所市池之内及び御所市玉手の大月池付近の2カ所に伝わります。

『卯花日記』(津川長道、文政12年(1829 ))は、「池ノ内」は上古池であったことに由来する地名であり、最近まで、池のなごりの芦の繁る沼があったそうで、少し高いところにある大月池付近の「蓬原」よりも池の跡としてふさわしいと記します。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:御所市>玉手村>掖上池心宮、御所市>池ノ内村)

③ 掖上博多山上陵

孝昭天皇の陵について、『記』に「御陵は、掖上の博多山の上に在り」、『紀』に「掖上博多山上陵」とみえ、奈良県御所市三室の「ハタヽ山」に治定されました。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:御所市>三室村>掖上博多山上陵)

御陵の東北330mの至近に、『延喜式』神名帳の大和国葛上郡の名神大社である鴨都波八重事代主命神社(鴨都波神社)が鎮座します。

④ 掖上室山

『紀』履中紀3年11月条に、物部長真胆連が「掖上室山」で季節外れの桜の花を得て献上し、「磐余若桜宮」の宮号が決まったことがみえます。

「掖上室山」は、『和名抄』大和国葛上郡牟婁郷、御所市室に比定され、孝安天皇の「室秋津島宮」の旧跡も当地に伝わります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:大和国>葛上郡>牟婁郷)

⑤ 掖上池

『紀』推古紀21年11月条に「掖上池」を造ったことがみえ、②の「掖上池心宮」の旧跡のある御所市池之内に比定する説があります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:御所市>池ノ内村)

⑥ 腋上陂

『紀』持統紀4年2月5日条に「天皇、腋上陂に幸して、公卿大夫の馬を観たまふ」と記されます。

御所市の北十三から室にかけて、葛城川が天井川となっているところの東岸に築かれた大きな堤防について、葛上郡条里制の配水がこの堤防によって確保されていることから、堤防は条里制施行以前のものとみられ、「腋上陂」に相当するのではないかと推測されます。

堤防下の蛇穴地区に、河内国茨田堤を造った茨田連が移住したという伝承があり、同地に鎮座する野口神社は、茨田連の祖神を祀ります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:御所市>腋上陂)

茨田連の祖は、神武の子、彦八井耳で、神八井耳の兄となります。

①〜⑥から、「掖上(腋上)」は、奈良県御所市の大字本馬・玉手・池之内・三室・蛇穴を含む平坦部に比定され、神武とその子彦八井耳、事代主神、孝昭・孝安の、いわゆる欠史8代系譜と密接に関わることが窺われます。

◇ 『姓氏録』山城国諸蕃の秦忌寸条に、「大和朝津間腋上」の地に弓月王らが移住したと記される。「朝津間腋上」について、「朝妻と腋上」か「朝妻の腋上」か見解がわかれるが、2地域は密接な関係にある。(→ 雄朝津間稚子宿禰

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