顕宗・仁賢– category –
5世紀末、市辺押磐皇子の子2人が播磨の志染で見つかり、弟、兄の順で即位します。弟(顕宗)と兄(仁賢)を取り巻く境遇の違い、2人の関係の変化に注目し、伝承の意味を探ります。
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顕宗・仁賢の兄弟関係の変化
『記』『紀』にみえる顕宗・仁賢の話に「相譲」が何度も出てきます。 『紀』顕宗即位前紀によると、顕宗・仁賢の兄弟は、播磨志染で伊予来目部小楯に発見された時、履中の孫であること明かす役を相譲、舞いを披露する役を相譲、都に上ると大王位を相譲しま... -
苅羽井の猪飼
『記』安康記に、 市辺押磐皇子が雄略に殺された後、 難を逃れ移動する2王子が、 山代の刈羽井で、猪飼の老人に食糧を奪われたことがみえます。 さらに、 『記』顕宗記によると、 即位した顕宗は、この猪飼を召し、 飛鳥河の河原で、斬殺の刑に処しました... -
馬見岡綿向神社と出雲
鈴鹿山脈の霊峰、綿向山を御神体とする、馬見岡綿向神社は、滋賀県蒲生郡日野町村井に鎮座し、『延喜式』神名帳に載る、近江国蒲生郡の馬見岡神社二座に比定されます。 出雲系の天穂日命・武三熊大人命・天夷鳥命を祭神とし、宮司は、南北朝期頃まで出雲宿... -
佐々貴山君と豊浦湊
佐々貴山君は、近江国蒲生郡の郡領氏族であり、大領として、『続日本紀』天平16年(744)8月乙未条に、佐々貴山君親人、『続日本紀』延暦4年(785)正月癸亥条に、佐々貴山君由気比、『日本三代実録』元慶元年(877)12月2日条に、佐々貴山公是野がみえま... -
蒲生野と来田綿蚊屋野
『紀』雄略即位前紀に、市辺押磐皇子が雄略に「来田綿蚊屋野」で殺されたことがみえます。 (→ 雄略による市辺押磐皇子謀殺) 「来田綿蚊屋野」は、古くから王権の薬猟場であった「蒲生野」の一角とされます。 『紀』天智紀7年5月5日条に、次のようにみえ... -
佐々貴山君の起源伝承
市辺押磐皇子は、雄略と王位を争っていましたが、狭狭城山君韓帒宿禰らの作戦によって、近江の来田綿蚊屋野で殺されました。 市辺押磐皇子の子である顕宗は即位すると、父、市辺押磐皇子の遺骨を捜し始めました。 『紀』顕宗紀元年2月条によると、近江国狭... -
伊予来目部小楯と播磨志染
播磨の志染で顕宗・仁賢を発見したのは「山部連先祖伊予来目部小楯で」した。 伊予来目部の本拠地は、重信川水系の小野川右岸、『和名抄』伊予国久米郡石井郷に属する、愛媛県松山市来住町の久米官衙遺跡群周辺と推測されます。 久米官衙遺跡群は、7世紀... -
仁賢と「嶋子」
『紀』仁賢即位前紀に、仁賢天皇について「字は、嶋郎」と記され、『紀』顕宗即位前紀の文注に、仁賢の更の名は「嶋稚子」とあります。 嶋郎・嶋稚子とは、丹後の浦嶋子と関わるといわれます。 『釈日本紀』所引『丹後国風土記』逸文によると、水江浦嶼子... -
顕宗と「来目稚子」
『紀』顕宗即位前紀の文注に、顕宗の更の名について「来目稚子」と記します。 「来目」は「久米」とも表記されます。 『万葉集』巻3に「博通法師の紀伊国に往き、三穂の石屋を見て作りし歌3首」として次のようにみえます。 はだすすき久米の若子がいましけ... -
顕宗・仁賢の系譜と葦田宿禰
顕宗・仁賢の系譜について、『記』『紀』に次のようにみえます。 弘計天皇は、大兄去来穂別天皇の孫なり。市辺押磐皇子の子なり。母をば、荑媛と曰す。 譜第に曰はく、市辺押磐皇子、蟻臣の女荑媛を娶す。蟻臣は、葦田宿禰の子なり。 『紀』顕宗即位前紀 ...
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