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南風<NANPU>へようこそ♡ ー 「建国神話」の成立過程を探る ー
「建国神話」の成立過程を探る、とありますが、「建国神話」とは、『古事記』の神武〜仲哀段、『日本書紀』の神武〜神功段を指します。
『古事記』の神武〜仲哀段、『日本書紀』の神武〜神功段の話の意味と成立年代を探ります。
鍵は、「5世紀前半の王権の特質をどう考えるか」にあると思います。
(『古事記』は『記』、『日本書紀』は『紀』と略して書きます。)
<5世紀前半の王権と尾張連>
5世紀初頭の大王、仁徳は、『記』に「誉田の日の御子」と記されます。
「誉田(ほむだ)」は、尾張連を母系とする「品它真若王」の一族を示し、当該期の王権の最重要勢力を尾張連と考えます。
「草薙剣(天叢雲剣)」の祭祀は、(「鏡」「瓊」に先駆けて)この頃に開始され、尾張連の始祖「火明(ホアカリ)」と不可分の関係にあり、「火明」は日向、「草薙剣」は出雲を起源とすることから、5世紀前半の王権は「日向」「出雲」の神威に大きく依存して成立したと思われます。
仁徳以降、雄略までの6人の大王のうち4人が日向諸県君の血統を継ぐ女性を后妃としているのは、「日向」の神威によって大王位が保証されていたことを示唆します。(允恭段は6世紀前半の要素を示し、作為的錯簡である可能性があります)
尾張連のほか、主要勢力の平群臣、葛城は、大王の子を育てる「壬生」を有し、世襲王権を指向しましたが、子どもたちのあいだの後継争いが常態化し、安定とはほど遠い状況でした。
「建国神話」の語り手は、「壬生」の中心勢力とみられる額田部連・多臣の周辺におり、「火明」「草薙剣」の神威のもとに編成されていたため、その視線は、「火明」「草薙剣」の変遷に注がれていたとみられます。
<雄略朝の「トモ」>
5世紀前半代の王位継承の限界を解決すべく、5世紀後半、雄略朝に「トモ」が登場します。
「トモ」は、大王候補の成人男性に接近して経済力・軍事力を提供し、即位が実現すると側近として権勢を振るうことを指向するもので、代表的勢力として大伴連・物部連があげられます。
「火明」「草薙剣」の神威のもとに編成されていた「壬生」にも「トモ」への転換が認められます。
『紀』雄略紀に、少子部蜾蠃の「子を集めて育てる」伝承がみえます。
少子部は多臣同祖の神八井耳後裔氏族ですが、「子を集めて育てる」伝承は、「トモ」形成を象徴的に語ったもので、少子部蜾蠃が捕獲した「三輪山の雷神」「菟田墨坂神」は「トモ」の神と推測されます。
「三輪山の神」の起源はこの神であり、「大物主神」「倭大国魂神」「大国主神」はその後の祭祀の変遷を描いていると考えます。
また、草香幡梭姫皇女の雄略に対する発言、頻発する小土豪討伐などから、雄略は、「壬生」勢力と「火明」に強く敵対したことが窺われます。
5世紀前半代の日向諸県君の血統を継ぐ后妃は雄略朝で途絶え、代わって物部連主導の和珥春日の后妃の血統が欽明朝まで継続します。
<顕宗朝の月神祭祀>
『紀』顕宗紀3年条にみえる月神・日神の祭祀は、「火明」のもと一体的存在であった「日向」を「月神」として分離する施策を示します。
王権が内包していた「日向」「出雲」の2勢力のうち「日向」については「配下」としての位置付けに成功したものと思われます。
<画期としての平群臣滅亡>
5世紀末、「トモ」と「壬生」の対立は厳しさを増し、前者の優位が際立ってきます。
播磨で見つかった市辺押磐皇子の2人の子、顕宗・仁賢の即位の話は、前者は「壬生」、後者は「トモ」を代表する存在で、仲良し兄弟が次第に仲違いしていく構図が描かれます。
顕宗・武烈は、和珥春日の后妃の血統から例外的に外され、陵墓が片岡にあるという共通点を持ち、葛城襲津彦後裔葦田宿禰一族と近しい王と推測されます。
ところが、平群臣討伐の相手について、『記』は顕宗、『紀』は武烈と記し、「平群」「葛城」の5世紀前半代の「壬生」の主要勢力の相討ちの様相を示します。
『記』の物語記述は顕宗朝をもって終了し、平群臣滅亡を画期とする認識が窺われます。
トップの滅亡は、「火明」「草薙剣」のもとに編成されていた「壬生」組織の広範囲な崩壊を招き、王権が極めて不安定な状態となったところへ、継体が登場します。
<継体による王権再建>
継体は、混乱収束のため新たな統治理念を導入したと思われますが、「火明」「草薙剣」のうち「火明」のほうは顕宗朝の月神祭祀で一定の位置付けが済んでおり、主眼は、「草薙剣」を祭祀変更して「壬生」組織を掌握することであったと推測します。
継体は、即位前に尾張連草香の娘目子媛と婚姻しており、2人の子、安閑・宣化が後継王となっています。
尾張連との婚姻が大王に即位できた要件とみられますが、なぜなのか、異例にも、没後、子2人が大王となりますが、なぜなのかを考えると、背景に、「草薙剣を火明から分離して祭祀することを尾張連が了承するかわりに目子媛の子2人を大王にする」という盟約の存在が想像されます。
また、継体は、楠葉・綴喜・乙訓に王宮を構えたことが知られますが、これは、北摂津・南山城に盤踞した「火明=草薙剣」勢力の残党討伐のためと思われます。
斬新な統治理念により継体は、集権的王権形成に成功しますが、520年代からの新羅の勢力伸長によって不安定化した朝鮮半島南部の加耶情勢への対応に失敗し、失脚します。
敗因として、葛城など「火明=草薙剣」出身勢力の離反が推測されます。
<継体から欽明へ>
継体王権崩壊後、蘇我氏のバックアップによる王権が7世紀中頃まで継続します。
比較的長期にわたり蘇我氏が安定的に権勢を維持できたのは、おそらく、継体王権の「行き過ぎ」を調整し、「いいとこ取り」に成功したからではないかと思われます。
具体的には、抽象的な「天」の統治理念は残しつつ、「日向」「出雲」の神威を再び祭祀するというダブルスタンダードを選択したと推測します。
第2次世界大戦後の日本古代史研究において、6世紀前半の継体・欽明朝を、国家形成の画期とみる見解が有力とされますが、「ほんとうにそうなのか」と疑念がつきまとうかと思われます。
ふつうは、「建国」の王が自分の話として「建国神話」を語るはずですが、『紀』継体紀・欽明紀の内容に「建国」の様子は窺われず、『記』『紀』では「建国」が成されたのは、はるか以前の神武の時代とされるからです。
「何だかわかりにくい」話となった理由は2つあると思います。
1つは、「建国神話」は、5世紀後半から6世紀前半を描いてはいるものの、「火明」「草薙剣」「三輪山の神」の変遷を主眼としていたこと、もう1つは、欽明王権が、5世紀初頭の王権の統治理念との近しさを示すため、5世紀後半から6世紀前半の「建国神話」に続いて、5世紀初頭からの歴史的事実を叙述するという構成を採択したことによると考えます。
<神武東征伝承と5世紀後半>
<崇神・垂仁・景行段と継体朝>
<応神誕生伝承と欽明朝>
<国譲り神話と7世紀後半>
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