丹後の「浦嶋子」

『紀』雄略紀22年7月条に、「瑞江浦嶋子」の話がみえます。

丹波国の余社郡の筒川の人瑞江浦嶋子、舟に乗りて釣す。

遂に大亀を得たり。便に女に化為る。

是に、浦嶋子、感りて婦にす。

相遂ひて海に入る。蓬莱山に到りて、仙衆を歴り覩る。

語は、別巻に在り。

『紀』雄略紀22年7月条

『釈日本紀』所引『丹後国風土記』逸文には、「水江の浦の嶼子」の話がみえます。

与謝の郡。日置の里。

この里に筒川の村あり。

ここの人夫、日下部の首らが先つ祖、名を筒川の嶼子と云ふひとあり。

為人、姿容秀美れ風流なること類なし。

これ、謂ゆる水江の浦の嶼子といふ者なり。

『釈日本紀』所引『丹後国風土記』

「瑞江浦嶋子」が捕らえた亀が女に変わり、女と一緒に海に入って、蓬莱山で仙衆を見たとありますが、「亀が女にかわる」「蓬莱山に行って仙衆をみる」というのは、神仙思想に特徴的な観念です。

神仙思想は、紀元前3世紀の古代中国の周の末期に、河北省の燕や山東省の斉の方士たちによって説かれた思想であり、仙人に託して、現世を超越することを希求し、不老不死の薬によって永遠の命を得ることや空を飛んだりすることの実現を目指し、海上の異界や山上の異境の楽園である常世国の観念と結びついています。

「丹波国の余社郡の筒川」は、京都府与謝郡伊根町字本庄浜に比定され、本庄浜に鎮座する宇良神社に「紙本著色浦島明神縁起(絵巻)」が伝わります。

着眼点を3つ示します。

① 『紀』に「瑞江浦嶋子」の話が雄略朝とされる点に注目します。

雄略朝は神仙思想と深い関係にあると認識されていた可能性があります。

『紀』雄略紀に、「蚕」と誤って嬰児を集めた少子部蜾蠃の話、分散していた秦の民を集めてもらった御礼に秦酒公が「絹」を奉献する話がみえ、『姓氏録』において、秦の民を集めたのは少子部蜾蠃と記されます。

少子部蜾蠃・秦酒公に「蚕」「人集め」という共通要素が認められます。

いっぽう、『紀』皇極紀3年7月条に、蚕に似た虫を「常世神」として祭って人々を誑かす大生部多を秦河勝が懲らしめる話がみえ、秦氏と「蚕」と神仙思想の関係が窺われます。

少子部蜾蠃・秦酒公の「蚕」「人集め」とは、神仙思想にもとづく統治理念を象徴的に表現しているのではないかと思います。

(→ 少子部蜾蠃と秦酒公

② 5世紀末に放浪の末大王となった顕宗・仁賢の兄弟は、放浪中に日下部連使主に連れられ「丹波国余社郡」に滞在していたことが『紀』顕宗即位前紀に記されます。

『丹後国風土記』逸文に「日下部の首らが先つ祖、名を筒川の嶼子」とみえることから、日下部連使主は、「浦嶋子」伝承の一族と繋がりのある人物と推測されます。

また、『紀』顕宗即位前紀・仁賢即位前紀に、仁賢の字、更の名について「嶋稚子」「嶋郎」とみえ、「瑞江浦嶋子」との関係がうかがわれます。

また、顕宗の更の名については、『紀』顕宗即位前紀に「来目稚子」とみえます。

「来目」は「久米」とも表記され、一義的に関係する、久米の本拠地、大和国高市郡久米郷の久米寺には、神仙思想の影響を強く受けた久米仙人の伝承が伝わります。

顕宗・仁賢ともに神仙思想と深い関係があることがわかります。

(→ 顕宗と「来目稚子」)(→ 仁賢と「嶋子」

③ 「浦嶋子」の「海に入って仙境に至る」観念は、海幸山幸神話と共通します。

「山幸」は「ホデミ」ですが、本庄浜から海岸線に沿って南下した丹後半島の付け根に鎮座する籠神社の神官家の始祖は「海部氏系図」に「ホアカリ」と記されます。

「ホアカリ」「ホデミ」は日向阿多で誕生した兄弟神であり、「浦嶋子」伝承の背景に、「ホアカリ」「ホデミ」の問題系があると推測されます。

(→ 「海部氏系図」と難波根子武振熊・倭直

①②③について、鍵は、5世紀後半の「トモ」と「ホアカリ」「ホデミ」の関係にあると思われます。

(→ 神武東征伝承と5世紀後半の相関性)

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